総入れ歯とデジタル時代の到来 ― 正中・咬合平面を数値で決める未来
総入れ歯(総義歯)の治療は、歯科治療最も経験と勘に左右される分野の一つです。
天然の歯がすべて失われた状態では、「どこに噛み合わせを作るか」「顔の真ん中(正中線)をどう設定するか」「噛む高さ(咬合高径)をどう決めるか」といった基本中の基本を、ゼロから作り直さなくてはなりません。
これまではフェイスボウという器具を使い、耳の位置や鼻と耳を結ぶ線などを基準にして、顎の位置や噛み合わせを咬合器という装置に移すのが標準的な方法でした。しかしこの方法には大きな問題があります。それは「再現性の低さ」です。フェイスボウで測定したデータは、どうしても個人差や術者の操作誤差の影響を受けやすく、ラボに送って模型を咬合器に装着する際にもズレが生じます。その結果、「患者さんの口の中では合っていたのに、咬合器に移すと違う位置になってしまう」ということが起こりがちでした。つまり、経験豊富な歯科医師や技工士でなければ理想的な義歯を作るのは難しく、標準化が進みにくい領域だったのです。
デジタルが切り拓く新しい可能性
こうした課題に対して登場したのが、韓国のRAY社が提唱する 「5Dコンセプト」 です。これはCTデータ、口腔内スキャン(IOS)、顔貌スキャンの三種類のデータを統合し、さらにAI解析を活用して診断や設計を行う新しい仕組みです。従来の「2Dレントゲン」や「3D CT」に加えて、顔貌や時間軸まで含めた包括的診断を可能にする点が特徴です。
特に総義歯分野で注目されているのが、コピー義歯を用いたアプローチです。方法はシンプルで、今使っている総義歯をコピーし、その内面にシリコンを盛って上下を噛み合わせた状態で印象採得を行います。これにより、粘膜への適合と咬合関係を同時に記録することができます。そのコピー義歯を単独でCT撮影し、さらに口腔内に装着した状態でもCTを撮影します。これによって「義歯そのものの形」と「顎骨との位置関係」を三次元的にデータ化できるのです。
解析段階では、このデータを使って咬合平面、正中線、咬合高径を数値的に割り出します。さらに顔貌スキャンを統合すれば、「顔の真ん中」と「義歯の正中」を合わせたり、「咬合平面を眼耳平面やカンペル平面と一致させる」といった作業を、直感的かつ客観的に行えるようになります。これまで術者の経験や感覚に頼っていた部分を、データで裏付けて標準化できるのです。
「すごい」ポイントはどこか
この方法が画期的なのは、単に新しい技術だからではありません。従来の弱点を根本的に解決するからです。
正中線の再現性
従来は審美的な目測や経験に依存していた正中線が、顔貌スキャンとCTを重ね合わせることで解剖学的に裏付けられます。
1.咬合平面の客観化
今までは「だいたいこのくらい」と感覚で合わせていた咬合平面が、CTから眼耳平面やカンペル平面を算出して義歯設計に直接反映できます。
2.咬合高径の数値化
顔貌データを統合することで、リラックスポジションや下顔面高をAIが解析し、適切な噛み合わせの高さを数値で示すことができます。
3.患者説明のわかりやすさ
完成義歯が顔貌に与える影響を3Dで見せられるため、「噛み合わせが変わるとこう見えます」と説明でき、安心感と納得感を得やすくなります。
臨床への応用と未来
このアプローチは総義歯だけでなく、部分床義歯やインプラントオーバーデンチャーにも応用できます。たとえば残存歯とインプラントを支台とした設計も、CTとIOSを統合することで最適化できます。また、長期的には義歯と顎骨の位置関係を経時的に追跡し、咬合高径や正中の変化をデータで管理することも可能になるでしょう。
日本は世界有数の高齢社会です。総義歯の需要は今後ますます高まり、その治療精度が患者さんの生活の質(QOL)に直結します。5Dコンセプトを利用した義歯診断は、経験や勘に依存していた分野をデータで補強し、「誰が作っても一定水準の義歯を提供できる」時代を切り開く可能性を秘めています。
さらに将来的には、このデータがAIによる自動義歯設計や3Dプリント義歯製作へとつながっていくでしょう。つまり、これまで「ブラックボックス」とされてきた総義歯治療が、透明で再現性の高い科学的プロセスへと進化していくのです。
まとめ
フェイスボウに代表される従来の方法は、理論的には意義があっても臨床的再現性には限界がありました。これに対して、コピー義歯とCT、顔貌スキャンを組み合わせる5Dアプローチは、粘膜・骨・顔貌の三位一体で診断を行うことを可能にし、総義歯治療を大きく変える力を持っています。
「正中や咬合平面を、経験ではなくデータで合わせられるようになる」──これは歯科医師にとっても技工士にとっても、そして何より患者さんにとっても大きな安心につながります。義歯がより快適に、より自然に、より信頼性高く提供できる時代が近づいていることを、強調しておきたいと思います。
全て患者さんの笑顔の為に・・・
下田孝義